祥子先生今昔物語

祥子先生の今昔物語

 

22年前の彼女への手紙 No3  - さようなら ー

2018-01-10

 ある日の朝,いつものように出勤し医局へ入るとすぐに,当直をされていた医局長が私に話された言葉は「すまん.」の一言でした.病室にいるあなたに会いに行かなくても,その言葉で全てがわかりました.前日の夜にどんなことが起きたか,何が間に合わなかったのか,医局長から教えていただくのですが,さようならの言葉が出てきません.気管支に入っていた酸素を送るチューブははずれていましたが,あなたの胸は動いていませんでした.看護師さんはすでにあなたをきれいな女の子にしてくれていました.その姿を確認し,私が行った先は病理室でした.あなたを奪ったセラチア菌に会うために.

 「患者No.××××の培養を見せて下さい.」突然言われた病理解剖の医師はその申し出に少しけげんそうな表情を見せましたが,私は泣かないようにじっと前を見据えていました.提出されたセラチア菌,シャーレの中でそれはそれはきれいな深紅色で培養されていました.「おまえか....」,そう一言言って私は病理室を後にしました.文句をたくさん言いたかったのだけどその一言しか出ませんでした.

 あれから22年経ちました.今の私ならあなたを助けられたでしょうか.今の私は,あの頃「あの先生にまかせたら大丈夫」と言ってくれるような医師に成りたいと思った,そのような医師になっているでしょうか.

 今の私ならあなたを助けられたでしょうか.......

22年前の彼女への手紙 No2  ― セラチアという菌 ―

2017-10-10

 あなたに栄養を確保するためすぐに指導医の先生は太い静脈から点滴を始めました.あなたは必死で点滴は嫌だと抵抗しましたね.なかばあきらめてもらったのよね.でも入院前に指導医の先生が予知したこと,「お嬢さんはとても重症ですよ.」の言葉は的中しました.入院後すぐに重症の肺炎を合併してしまいましたね.指導医からの点滴治療の指示を仰ぎながら,私は毎日気がきではありませんでした.夜もアパートで落ち着かず,実はどきどきしていたのよ.ごめんなさい,そんな中,土日の医局旅行があったんです.
 土曜日仕事を終えて宿泊先へ向かうため病院をでる時に,あなたに高熱がでてしまいました.もうとてもどきどきしました.当直の先生がいらしたので報告申し上げ,旅行先のホテルに泊まりました.でもだめでした.あなたから離れていると私が落ち着きません.病院へ戻りますと伝えて日曜の早朝,ホテルを出ました.病院へ着きすぐにあなたの元へ駆けつけました.不安は的中し,更にかなり高熱になっていましたね.ほっておいて出かけてしまってごめんなさい.無力の私はあわてて当直の先生を探しました.その先生に経過を報告し,すぐに診ていただけないか頼みました.先生はカルテとデータをご覧になられて,このまま経過観察しかないという指示だったのです.どうしよう,どうしよう,どうしよう,この言葉しか私にはありませんでした.彼女を襲っている肺の中にいる細菌はセラチアという菌でした.彼女の意識がなくなったのはその翌日です.セラチア菌は肺から血管の中に進入しました.血流にのってセラチアがばらまかれるのは一瞬です.全身の臓器に運ばれそこで猛威をふるいます.指導医の先生方が選ばれた次の手段は,呼吸が苦しいのでお薬で意識を落として自分の呼吸を止め,気管の中に管を通して強制的に機械による呼吸をさせ酸素を送る方法でした.私には初めての経験でした.私がとても頼りなかったことごめんなさい,再びあなたを目覚めさせるまで,私から楽しいことは消えました.一生懸命頑張ってくれてありがとう.眼があかない中,手が動き何かジェスチャーできるようになり,それが,喉が渇いた,水がほしいと言っていることだと私にはちゃんとわかったのよ.もう少し,あと少しでセラチアに勝てる,そう感じたの.でもあなたは私の方をみないで,はるか向こうをむいてしまった..........

22年前の彼女への手紙

2017-07-01

 また7月に入り,あなたの事を思い出します.私が医学部を卒業し研修医となって一ヶ月も経たない頃でした.入院患者の担当を決めていた看護師より,あなたの主治医になるように指示され,「はい!」と答え,病棟でベッドに横たわっているあなたに挨拶しましたね.でも医局に入ろうとした時に扉の向こうで,医局長がその看護師を怒っている声が聞こえてきました.「この患者さんの主治医を決めたのは誰だ!」.....

 その声を聞き,私でも診られるのに...“と,主治医である私を否定されたような感じを抱き,悔しい思いをしたのを覚えています.そう,私はあなたを治療できると思っていました.あなたの事を,ただ何か心にショックな事があって食べないだけと思っていました.やせ細ったあなたが食べられない理由は,父親から「太ったね.」と言われたことがきっかけでしたね.ベッドに横たわるあなたは,毛布1枚かけられるともう寝返りもできないほど衰弱していました.別の指導医の先生がご家族にこう説明していました.「お嬢さんは棺桶に片足が入ったような状態で病院に来たんですよ.」.研修医で経験不足の私はその意味がわからず,これからしのびよってくる悪夢のような出来事に気づきもせず,‘私だって診られるのに’と医師としてではなく自分としてだけのプライドの塊になってしまっていました.それからその先生は私に,あなたの精神科の主治医はどの先生になったのか聞かれました.精神科に受診をお願いし,来ていただいた女性の先生のお名前を申し上げると,笑顔で「ああ,あの先生なら大丈夫だ.」と即座に答えられたのです.10年以上もご経験のある精神科の先生と比較する私はかなり愚か者ですが,‘私は絶対に診てやる’と心に誓ったのです.でもすぐに,あなたの体の奥から私の誓いを打ちのめす病魔が顔を出しましたね.あなたへの思い出,いったん筆を置きます.

彼女が生きている事を願って    —届かない年賀状—

2017-04-10

 前回は,診断がついた直後に急変して呼吸停止状態となり,気管内挿管を行って救命できたところまでお話しました.

 状態が落ち着きいろいろな詳しい検査をしたところ,彼女を数年苦しめていたこの病気の原因,合併症がわかりました.胸の中央にある胸腺という組織の悪性腫瘍でした.呼吸器外科で摘出し,この病気の薬も決まり数ヶ月入院を経て元気に退院できました.しばらく元気な姿で外来治療を続けました.その後,私が派遣となってしまい,彼女は私の手から離れました.その間彼女からは,おいしいケーキ屋さんがあって食べた事,父親,母親の事など,日常の近況を知らせる年賀状が届いていました.

 数年経過し私は戻ってきてまた外来診療に復帰しました.彼女は神経内科外来から外れて呼吸器外科の患者さんとなっていました.胸腺腫瘍は実は胸膜に多数転移しており,その治療を続けていたのです.私が戻ってきたことがわかると,彼女から神経内科初診の形をとり,私の外来に戻ってきました.元気そうで何者にも負けないで生きる強さを感じました.仕事はできないのですがおしゃれ,おいしい食事,好きな洋服,将来の夢,いろいろな女の子の話しをしてくれ,楽しく笑い声のある外来が続き,私も幸せでした.しかし私は転移癌の広さを知り,彼女がどこまで知っているのか不明でしたので慎重に言葉を選んでいたことを覚えています. 2年経ち,また私は派遣の命を受け,他県で働くことになります.

 

でももう年賀状は届きません.

彼女が生きている事を願って   —眠りの彼女−

2017-01-01

 前回は彼女を初めて外来で診たときの話をしました.

「これは症状が良くなったり悪くなったりするのでなかなかわかってもらえず診断が初めにつきにくい神経内科の病気ですよ.」と彼女に話し,精査のために(本当は命に関わるために)すぐ入院していただきました.診断は間違いなかったため入院してすぐお薬を使い治療に入ります.その入院後3日目です.突然彼女は呼吸が苦しくなり意識がなくなります.指導医の先生が気管内挿管を行い,機械で酸素を送って呼吸の代わりにし,機械の管が気管に入りっぱなしのため苦しいので,麻酔をかけて自分で呼吸ができるようになるまで眠りについてもらいます.すんでのところで命をとりとめることができました.この病気の特徴ですが,病気の症状の一つとして突然の呼吸困難があります.また一方で使用される治療薬のせいでも呼吸困難を合併することもあります.病気の症状の悪化であれば治療薬を増やさなければならないし,治療薬のせいであればそのお薬をやめなければなりません.方針が全く逆なのです.原因がこのどちらなのかを決めないと治療が間違い,もっと悪くさせてしまいます.でも眠りに入った彼女からはもはやどちらかがわかりません.この呼吸困難の嵐が過ぎ去るまでしばし待ちました.

 数週間経ちました.自分で呼吸できるかどうか私達は麻酔を少しずつ少しずつ減らしていって眠りの奥にいる彼女を私達の世界に呼び込みました.きっと彼女は意識の遠くから,自分の名前を呼ぶ私達の声を聞いたと思います.「手を握って.」私の声が届き,彼女は私の手をかすかに握ります.いよいよ管を抜く時間が来ました.抜いた瞬間,かなりの咳をして気管に間違って入ってしまっていた唾液や痰を出しています.その咳の強さに,もう大丈夫,自分で呼吸できると確信しました.

 私達が愕然としたのは,その後の精査の結果を聞いた時です.−続く−

彼女が生きている事を願って   —彼女との出会いー

2016-10-01

 彼女から年賀状が届かなくなって11年経ちました.

 

 彼女との出会いは彼女が34歳の時でした.話はその3年前にさかのぼります.

外資系会社勤務で突然退職を命じられた彼女は労働基準局へ訴えに行きます.でも最初は会話可能でしたが,長く話しを続けていくと声が出にくくなり,鼻に抜けていきます.帰宅した頃には声がでるようになっていました.約半年後別の外資系会社に入社します.ある日,昼食のサンドイッチとコーヒーの味が全くわからなくなります.数日後,食べ物の味は戻りました.

 2年後,外国旅行に出かけます.そこで食事がうまくできなくなりましたが旅行から戻ると回復しました.また仕事が忙しい時期に喉の痛みが出ます.開業医受診され,喉頭内視鏡で喉に炎症を認めたため抗生物質内服で治療されました.この頃,やはり最初は普通に話せるのですが,長く話すと声が鼻に抜けていき,約2週間で元に戻る症状を繰り返します.12月暮れ,仕事にストレスを感じていた頃,喉の痛み,声が鼻に抜ける等のいつもの症状に加えてストローで水分が飲めない,口唇に力が入らず口が閉じられない等の症状も出てきます.でも2週間ほどで症状は改善するのです.

 1年後,いよいよ私との出会いが近づいてきました.仕事がきつく感じていた頃のある日,鏡を見て時々右のまぶたが下がっていることに気づきます.この頃には喉の痛み,鼻声,口唇が動かないなどの症状が頻繁となります.とうとう仕事がきついため退職し,別の会社の面接を受けますが声が出しにくいのです.今回は症状が改善しません.声や喉の症状でしたので耳鼻科受診をしますが問題ありませんでした.

 ある日,私は外来で若い女性の名前を呼び入れました.そこには,両側のまぶたが下がり,起き上がろうとしても首が重くて垂れてしまい,舌足らずで階段も上がれず,疲れきった彼女がいました.私は,彼女の体の中にいる末梢神経をむさぼっている「そいつ」に話しかけてみました.しかし実際はそんな「話しかけてみる」みたいな悠長な話しではなかったのです.    続くー

 

15年かかった診断   最終章

2016-07-01

彼女の体の脱力を確認した私は,精査依頼で大学病院へ15年分の紹介状を書き,受診してもらいました.でも結果は異常なしなのです.帰ってきた彼女と相談し,もう思い切ってその病気のお薬を使う事にしました.15年苦しんだ彼女のたってのお願いでした.これは特殊な薬であり,診断が確かでないとなかなか使うことはできません.ある種の私の暴走です.でも効果があったのです.彼女の体はしっかりしました.(この方法は,パーキンソン病にもよく行われた時期があります.パーキンソン病かどうか迷ったとき,「診断的治療」といいまして薬を飲んでみて効果あればパーキンソン病とひとまず診断する方法です.)しばらくお薬を続け,日常生活は安定しました.

 さてしばらく経過し,薬の効果が切れてしまう時がありました.再びまぶたが下がってしまいます.彼女は力が抜けていく中で必死に携帯を取り出し自分の顔を写真に撮りました.症状がおさまり大学病院に受診し自分の顔を医師に見せます.それを診た主治医は「この病気だ,間違いない」と話されたそうです.私との15年の病気探しは終わりました.今は難病指定され医療費は公費で補助されています.現在彼女の全てを理解した新しいご主人が彼女を見守っています.

最後に,1900年初頭にハーバード大学で医学生に教えていた有名な内科教授の言葉を添えて最終章を閉じたいと思います.

「患者の話をよく聞きなさい.彼は診断を話しています.」

15年かかった診断   第3章 –15年目—

2016-04-01

 私と出会って10年が経ちました.「また物が二重に見えます.」3年ぶりの声は明るく元気な様子でした.この電話を受け私の外来に来てもらいました.診察と検査の結果は,前回同様全く問題がなく,今回は大学病へのセカンドオピニオンもせず,様子みようかと話し,彼女はまた去っていきました.

 彼女との病気探しは,途絶えはするけれど15年目に入りました.彼女の澄みきったか細い声を聞き,電話の向こうの彼女の顔を思いはかります.「受診したい,物が二重に見える時があるけれど,今回は体調も悪い.」,この連絡が入り,私の外来に予約なしで飛びこんでくれとたのみました.15年目の勝負です.待合室の彼女を看護師が呼び入れ,診察室の扉を開けました.その瞬間に私は彼女の中に15年も隠れていた病気の本態をやっと捕まえることができました.自分の名前を呼ばれ椅子から立ち上がった様子を直接見て診断を確信しました.「やっとつかまえた.」再会した彼女への最初の言葉でした.立ち上がる時に殿部や太ももの筋力が弱く努力して立ち上がったその様子は,精神的でも気のせいでもなく真実でした.私は確信したのです.今度こその思いで大学病院へ15年の経過を書きました.

 でも病院の返してきた返事は、、、、、、、.私は暴走モードに突入します.次回は最終章です.

 

「15年かかった診断   第2章 −7年目—」

2016-01-01
  7年ぶりに、大学病院の神経内科外来に彼女は現れました。
でも訴えは物忘れではなかったのです。「物が二重に見える時がある。」これを聞き、神経内科医でないとなかなか診断がつかず、またいろいろな科をどうしても受診してしまい、あげくのはてはどの科でも異常なしと結論されてしまいがちな、ある疾患をイメージしました。私が心の中で慌てたは、もしこの病気だったら、突然の手足の脱力と呼吸困難があって倒れるからです。
  以前「義経と弁慶」でお話した自分で作った抗体が自分を攻撃してしまうタイプの病気で、またそれとは別の種類の抗体の病気です。早速血液検査、末梢神経の疲れやすさを計る検査、脳の画像検査などあらゆる検査を施行しましたが、やはり何も異常がありません。
  診察時は物もしっかり見え、異常はありません。他の先生にも診ていただきましたが、答えは異常なしです。残念ながら、また「心の問題からじゃないか」との結論でした。彼女は静かに私達が出した結論を受け入れます。
  私は彼女に「その訴えを信じるね。私が考えている病気は、診察の時にかくれることがよくあるけど、いくらその病気が姿をくらましても検査をすればつかまえられるのに、今回はそれでも姿をあらわさなかった。だけど信じるね、また物が二重に見えたらすぐ来てね・・・・・。」彼女は再び私のもとを去りました。
 
  その3年後です。彼女から電話が来ました。

「15年かかった診断 第1章」

2015-11-01
  ある女性が私の外来に受診しました。30代前半の彼女が、「物忘れをするんです。」と訴えました。確かにお話を伺うと仕事に支障をきたしています。
  しかし血液検査、脳の画像、脳波、神経心理検査どれをとっても異常ありません。私達の結論は心因的なもので病気ではないという判断でした。
  でもひっかかります。通常心因的なものは訴えの内容が多く、言葉遣いや態度、目線などでだいたい分かるものですが、彼女は冷静で状態を分析できます。私たちが出した結論に、心にストレスを持っている人は通常「そんなはずはない、でもつらいんです。」と訴えます。
  しかし彼女は冷静で「きっとそういうふうに言われると思っていました。直接第3者の観察、意見を聞きたかったからです。でも確信は得られず、相談があったらまた連絡を下さいと伝え、私の外来から消えました。
 
  7年後、再び彼女は受診します。その訴えは全く違っており、私を慌てさせました。次回に。
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