祥子先生今昔物語
祥子先生の今昔物語
彼女が生きている事を願って —彼女との出会いー
彼女から年賀状が届かなくなって11年経ちました.
彼女との出会いは彼女が34歳の時でした.話はその3年前にさかのぼります.
外資系会社勤務で突然退職を命じられた彼女は労働基準局へ訴えに行きます.でも最初は会話可能でしたが,長く話しを続けていくと声が出にくくなり,鼻に抜けていきます.帰宅した頃には声がでるようになっていました.約半年後別の外資系会社に入社します.ある日,昼食のサンドイッチとコーヒーの味が全くわからなくなります.数日後,食べ物の味は戻りました.
2年後,外国旅行に出かけます.そこで食事がうまくできなくなりましたが旅行から戻ると回復しました.また仕事が忙しい時期に喉の痛みが出ます.開業医受診され,喉頭内視鏡で喉に炎症を認めたため抗生物質内服で治療されました.この頃,やはり最初は普通に話せるのですが,長く話すと声が鼻に抜けていき,約2週間で元に戻る症状を繰り返します.12月暮れ,仕事にストレスを感じていた頃,喉の痛み,声が鼻に抜ける等のいつもの症状に加えてストローで水分が飲めない,口唇に力が入らず口が閉じられない等の症状も出てきます.でも2週間ほどで症状は改善するのです.
1年後,いよいよ私との出会いが近づいてきました.仕事がきつく感じていた頃のある日,鏡を見て時々右のまぶたが下がっていることに気づきます.この頃には喉の痛み,鼻声,口唇が動かないなどの症状が頻繁となります.とうとう仕事がきついため退職し,別の会社の面接を受けますが声が出しにくいのです.今回は症状が改善しません.声や喉の症状でしたので耳鼻科受診をしますが問題ありませんでした.
ある日,私は外来で若い女性の名前を呼び入れました.そこには,両側のまぶたが下がり,起き上がろうとしても首が重くて垂れてしまい,舌足らずで階段も上がれず,疲れきった彼女がいました.私は,彼女の体の中にいる末梢神経をむさぼっている「そいつ」に話しかけてみました.しかし実際はそんな「話しかけてみる」みたいな悠長な話しではなかったのです. —続くー
15年かかった診断 最終章
彼女の体の脱力を確認した私は,精査依頼で大学病院へ15年分の紹介状を書き,受診してもらいました.でも結果は異常なしなのです.帰ってきた彼女と相談し,もう思い切ってその病気のお薬を使う事にしました.15年苦しんだ彼女のたってのお願いでした.これは特殊な薬であり,診断が確かでないとなかなか使うことはできません.ある種の私の暴走です.でも効果があったのです.彼女の体はしっかりしました.(この方法は,パーキンソン病にもよく行われた時期があります.パーキンソン病かどうか迷ったとき,「診断的治療」といいまして薬を飲んでみて効果あればパーキンソン病とひとまず診断する方法です.)しばらくお薬を続け,日常生活は安定しました.
さてしばらく経過し,薬の効果が切れてしまう時がありました.再びまぶたが下がってしまいます.彼女は力が抜けていく中で必死に携帯を取り出し自分の顔を写真に撮りました.症状がおさまり大学病院に受診し自分の顔を医師に見せます.それを診た主治医は「この病気だ,間違いない」と話されたそうです.私との15年の病気探しは終わりました.今は難病指定され医療費は公費で補助されています.現在彼女の全てを理解した新しいご主人が彼女を見守っています.
最後に,1900年初頭にハーバード大学で医学生に教えていた有名な内科教授の言葉を添えて最終章を閉じたいと思います.
「患者の話をよく聞きなさい.彼は診断を話しています.」
15年かかった診断 第3章 –15年目—
私と出会って10年が経ちました.「また物が二重に見えます.」3年ぶりの声は明るく元気な様子でした.この電話を受け私の外来に来てもらいました.診察と検査の結果は,前回同様全く問題がなく,今回は大学病へのセカンドオピニオンもせず,様子みようかと話し,彼女はまた去っていきました.
彼女との病気探しは,途絶えはするけれど15年目に入りました.彼女の澄みきったか細い声を聞き,電話の向こうの彼女の顔を思いはかります.「受診したい,物が二重に見える時があるけれど,今回は体調も悪い.」,この連絡が入り,私の外来に予約なしで飛びこんでくれとたのみました.15年目の勝負です.待合室の彼女を看護師が呼び入れ,診察室の扉を開けました.その瞬間に私は彼女の中に15年も隠れていた病気の本態をやっと捕まえることができました.自分の名前を呼ばれ椅子から立ち上がった様子を直接見て診断を確信しました.「やっとつかまえた.」再会した彼女への最初の言葉でした.立ち上がる時に殿部や太ももの筋力が弱く努力して立ち上がったその様子は,精神的でも気のせいでもなく真実でした.私は確信したのです.今度こその思いで大学病院へ15年の経過を書きました.
でも病院の返してきた返事は、、、、、、、.私は暴走モードに突入します.次回は最終章です.
「15年かかった診断 第2章 −7年目—」
でも訴えは物忘れではなかったのです。「物が二重に見える時がある。」これを聞き、神経内科医でないとなかなか診断がつかず、またいろいろな科をどうしても受診してしまい、あげくのはてはどの科でも異常なしと結論されてしまいがちな、ある疾患をイメージしました。私が心の中で慌てたは、もしこの病気だったら、突然の手足の脱力と呼吸困難があって倒れるからです。
以前「義経と弁慶」でお話した自分で作った抗体が自分を攻撃してしまうタイプの病気で、またそれとは別の種類の抗体の病気です。早速血液検査、末梢神経の疲れやすさを計る検査、脳の画像検査などあらゆる検査を施行しましたが、やはり何も異常がありません。
診察時は物もしっかり見え、異常はありません。他の先生にも診ていただきましたが、答えは異常なしです。残念ながら、また「心の問題からじゃないか」との結論でした。彼女は静かに私達が出した結論を受け入れます。
私は彼女に「その訴えを信じるね。私が考えている病気は、診察の時にかくれることがよくあるけど、いくらその病気が姿をくらましても検査をすればつかまえられるのに、今回はそれでも姿をあらわさなかった。だけど信じるね、また物が二重に見えたらすぐ来てね・・・・・。」彼女は再び私のもとを去りました。
「15年かかった診断 第1章」
でもひっかかります。通常心因的なものは訴えの内容が多く、言葉遣いや態度、目線などでだいたい分かるものですが、彼女は冷静で状態を分析できます。私たちが出した結論に、心にストレスを持っている人は通常「そんなはずはない、でもつらいんです。」と訴えます。
しかし彼女は冷静で「きっとそういうふうに言われると思っていました。直接第3者の観察、意見を聞きたかったからです。でも確信は得られず、相談があったらまた連絡を下さいと伝え、私の外来から消えました。
「義経と弁慶~ある女性の戦い 最終決戦~」
しかし出産後は反動といいましょうか、症状憎悪となります。私たちは出産後の悪化はよくあることだから頑張って注射を続けてと話し、治療を継続しました。しかしその後も症状は悪化します。とうとう右片麻痺になってしまいました。脳の画像検査をしてみると「ミサイル搭載ジェット機自己抗体」がどんどん脳を冒して戦い果てた脳細胞と護衛の細胞達の残骸が大きく広がっていました。
抗体が違っていたのです。私たちの標的はそれまで見事に姿を隠したまま攻撃を続けていたのでした。いったん敗北を認め引かなければなりません。皮下注射を始めて症状悪化している患者さん達は治療中断、従来の内服治療に戻りました。
彼女も十分に泣きました。十分に心も体も傷つきました。でも攻撃を受けなかった脳細胞達はしっかりと生きていました。抗体はそこにいて次の攻撃の機会を狙っているけれど、脳細胞達はもう抗体を見つめておびえてはいません。夫を見て、娘を見て、外を見てしっかり生きています。彼女はこの戦いに勝ったと私は思います。
「義経と弁慶~ある女性の戦い~」
残念な事にこのミサイル搭載ジェット機が主人である私達の脳神経をおおっている蛋白質を敵と誤認してしまう場合があります。攻撃が始まると脳細胞は身動きできません。逃げられません。護衛の細胞達が脳神経を守るために必死で戦います。同時多発で脳の中のあちこちで戦いが始まっています。援護できる状態ではなく、今目の前にある自己抗体を後ろの脳神経に行かせないように戦うので精一杯です。しかしくずれます。仲間が倒れて行きます。この護衛達は自分の死期がわかると、まるで弁慶が義経の最後のプライドを守るために、敵の矢をすべて自分の体で受けて立ち往生をしたように、互いに這って集まり、最後の力をくいしばって立ち上がって肩を組み合い、自己抗体のミサイルを体全身で受けて朽ち果てます。
次回、この病気と戦っている若い女性のお話をします。
「衝撃と偏見~私のこと~」
今は、日本人には計り知ることのできない人種差別を受けてきたその人が私の隣にいます。
「誰もNさんを助けられなかった」
電話が鳴りました.......あのなつかしい病院からです.Nさんはこの病気のために生活保護を受けていました.でも家族ができて,もっと幸せにするためにちょっと内緒で働いたようです.また体調をくずし入院しました.働いたことで生活保護は中止となってしまいました.奥さんとは離婚してしまいました.病院からは治療終了で退院をせまられていました.ソーシャルワーカーは必死で彼を守りました.でも退院の日が決まり病院を出た後,彼は誰にも告げず一人で永遠に私達と別れてしまいました..........