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祥子先生今昔物語

祥子先生の今昔物語

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「あの子」

2014-01-01
  37年前、彼は2歳でした。両手両足が不自由な脳性小児麻痺。両手が握られたまま、両足が伸びず、這って私のところに来ました。私と彼、ご両親とのリハビリテーションが始まりました。それからの彼の人生はこうです。
  6歳になるとき、普通学校へ行くのか、養護学校(現在の特別支援学校)へ行くのかの選択が必要になりました。彼らは普通学校を選択しました。いじめにあうかもしれない不安より「普通」を選びました。何度も教育委員会からの呼び出しがあったようですが、彼らの決心は揺るぎませんでした。唯一私ができたことは、入学前の日曜日小学校へ赴き、椅子の高さ、机の高さ、トイレの確認、40分の授業による体のこわばりの改善のための自主トレーニング方法を教える事でした。30年以上も前の環境は障害者の方を向いていません。でも小学校は、彼のために障害児のトイレを作ってくれました。彼が社会を変えた最初の出来事です。その2年後、彼は8歳で父を亡くします。30台前半で大腸癌でなくなりました。彼と若い20代後半のお母さんだけになりました。生活保護になりましたが、数年後お母さんはレストランで働くことにしました。でもある時彼がお母さんに言いました。「貧乏してもいいから、生活保護でいいから、お母さんは家にいて。」その言葉を聞き、お母さんは仕事を辞めました。
中学生になり学校が終わってからリハビリテーション治療に病院へ来たときのことです。彼が言いました。「先生、僕ね、障害者のテレビドラマ嫌い。だっってみんな優しくかばうように接するでしょ。僕たちって特別なの?僕は普通なのになんでみんな特別扱いするのかな。」小学校、中学校と成績は最下位で、普通学校でもまれたあの子は普通に育っていました。この仕事を続ける限り、私はこの言葉を一生忘れないと思いました。
さて、今度は高校をどうするかの選択がやってきます。忘れられない出来事が待ってました。次回に。

「口減らし」

2013-10-01
  たった一言、「あの島に死ぬ前にもう一度行きたい。」,そうつぶやいたその女性は肺気腫を患い在宅酸素療法を受け、酸素チューブで命をつないでいました。
なぜその島なのかわかりませんでしたが、車に酸素を積んで新しくできた島と島をつなぐ橋を渡りました。小さな島です。望まれるまま島を巡っていると、「ここで降りる。」と彼女が止めたところは岸壁でした。向こう岸には私達が渡ってきたその人が生まれた島が見えます。しばらく静かな時間が彼女をおおいました。初めてその人が話し始めました。「昔、6歳にも満たなかった頃、口減らしでこの島に送られた。なぜこの島に来たのかわからなかった。親に連れられて知らない人の家に入った。知らない人が笑顔で私を見て、赤ちゃんを私に背負わせた。外であやしてきてと頼まれ、言われたまま外に行った。戻ってみると親はいなかった。これからここで家の手伝いをするようにとだけ言われた。逃げ出したかった。毎日のように夕方に赤ちゃんを背負って走って逃げだしたけど、いつもこの岸壁にぶつかった。向こう岸には親のいる島が見え、誰かの家の明かりが見えた。泣いて泣いて仕方なく戻るしかない日々が続いた。」
 
  その人の最後は肺気腫から肺炎を併発し病院で亡くなりました。泣きじゃくる私の父が見送る最後の言葉が今でも私の心に刻み込まれています。「家の宝だった。」

「誘拐」

2013-07-01
「ふらついて歩けなくなり、入院した女性を診ていただきたいのですが、」と内科主治医よりコンサルトを受けました。80代の女性の病室へ行きました。とても明るい方で、「先生治してよねー。」と笑顔でお願いされました。確かにふらついていて何かにつかまらないと歩けません。でも診察してみると脳や脊髄は傷んでいません。両足の位置感覚が全くない状態で末梢神経が傷んでいました。ちょうど何時間も正座したあと足の感覚が全くなくなってしまうのと同じ状態です。この原因で多いのは、糖尿病やアルコールです。この方は、軽い糖尿病でした。そこで、ビタミン剤を処方したところ、改善され退院されました。
 
  さて、話はこれからです。この方が、ケアマネジャーと一緒に外来に来られました。「どこで生まれたのですか?」と伺うと、「○○県で生まれたんだけど、子供の頃に誘拐されてこっちへ来たんだよ、逃げようと思ったけど自分がどこにいるかわからないし、帰る方法もわからないから、そのままになっちゃった。」 私は認知症の症状かと思い、いつものように話を合わせようとしたところ、ケアマネジャーが言うのです。
「先生、本当なんです。で、小さい頃は子守させられて小学校にも行かせてもらえず、この方は今でも読み書きができません。」
 
  昔、日本がまだ貧しかったころ、子沢山の家でお米もあまりなく食べていけないお家は、口減らしといって子守や家事の手伝いとしてまだお母さんの側にいたい小さい年齢の子供たちが出されました。親も子供も断腸の思いだったでしょう。きっとこの方は、口減らしされたのだと思います。今ではご両親の所在もわからないようです。私はもう一人、口減らしの女性を知っています。
 
  次回は、この女性のことをお話させてください。

生存切符

2013-04-01
その娘さんは、少し厳しい表情で私の外来にお母様を連れてこられました。何か一大決心をしている様子で、お母様が認知症かどうか診察してほしいという希望でした。お母様といろいろお話する中で、認知症なのか病気ではない物忘れなのか診察させていただき、頭部の画像検査で脳の形を確認し、アルツハイマー型認知症と診断しました。
「さて治療ですが・・・」と娘さんに話しかけたところ急にさえぎられました。
「先生、どうせ薬をやっても治らないし進行するんでしょ。この人の面倒をこれまで一生懸命みてきました。私の人生は、この人の犠牲になりました。私はもう嫌です。私は私の人生を取り戻したい。どうせ進行するなら薬はいいです。」
そうおっしゃられて、私の人生からお二人は消えていかれました。
 
  3年後のある日、私の外来予定表にその方の名前があります。診察室に入ってきたとき、娘さんの目には涙がありました。「先生、母は進行してます。なんとかしてください」「お任せ下さい。さあ、今からスタートしましょう」私とその方とお母様の人生がやっと重なりました。
 
  今、お母様は施設で過ごされています。その方は、きちんとお母様を連れて私の外来にいらっしゃいます。他科の医師が、私の電子カルテを見てお母様に「認知症」という単語を使おうものなら、母を傷つけたくないと、毅然として医師に私のカルテの内容を母に話さないように申し付ける強さをお持ちです。
 
  お母様は、受診の度に「先生、また生存切符もらいに来たよ。これでまた生きられるかな?」と話されます。
  処方箋という生存切符は、最高に効果があります。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2013-01-01
  思い出乗せた年賀状が届き始めました。1年に1回、心のタイムマシンがその人のもとへいざなってくれます。
一方で、もう一つの思い出箱には、数十年の病院勤務時代に患者様からいただいたいくつかのお手紙が入っています。私にはこのお手紙たちが財産なので、一生が終わるときには一緒に持っていくと心に決めており、その所在を家族に伝えてあります。
  さて数か月前、1通のお手紙が届きました。施設長様と書かれたそのお手紙には、大切なご家族を預けるに至り、いくつかのしてもらいたいことや私たちにもっと頑張ってもらいたいことを指摘して頂きました。でもそのお手紙は単なる投書ではなく、本当にお手紙でした。感情を抑えられ、一貫して私達の仕事に心を入れて頂きたいとおっしゃられたものでした。私だけの財産とするのではなく、皆の財産にしてもらいたく、各部署に貼らせていただいております。
  去年いただいた手紙のような私達から、今年は成長できますように頑張ります。
  このお手紙は、今私の思い出箱に入っています。
医療法人名圭会 介護老人保健施設ケアタウンゆうゆう
〒349-0142
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