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祥子先生今昔物語

祥子先生の今昔物語

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彼女が生きている事を願って   —彼女との出会いー

2016-10-01

 彼女から年賀状が届かなくなって11年経ちました.

 

 彼女との出会いは彼女が34歳の時でした.話はその3年前にさかのぼります.

外資系会社勤務で突然退職を命じられた彼女は労働基準局へ訴えに行きます.でも最初は会話可能でしたが,長く話しを続けていくと声が出にくくなり,鼻に抜けていきます.帰宅した頃には声がでるようになっていました.約半年後別の外資系会社に入社します.ある日,昼食のサンドイッチとコーヒーの味が全くわからなくなります.数日後,食べ物の味は戻りました.

 2年後,外国旅行に出かけます.そこで食事がうまくできなくなりましたが旅行から戻ると回復しました.また仕事が忙しい時期に喉の痛みが出ます.開業医受診され,喉頭内視鏡で喉に炎症を認めたため抗生物質内服で治療されました.この頃,やはり最初は普通に話せるのですが,長く話すと声が鼻に抜けていき,約2週間で元に戻る症状を繰り返します.12月暮れ,仕事にストレスを感じていた頃,喉の痛み,声が鼻に抜ける等のいつもの症状に加えてストローで水分が飲めない,口唇に力が入らず口が閉じられない等の症状も出てきます.でも2週間ほどで症状は改善するのです.

 1年後,いよいよ私との出会いが近づいてきました.仕事がきつく感じていた頃のある日,鏡を見て時々右のまぶたが下がっていることに気づきます.この頃には喉の痛み,鼻声,口唇が動かないなどの症状が頻繁となります.とうとう仕事がきついため退職し,別の会社の面接を受けますが声が出しにくいのです.今回は症状が改善しません.声や喉の症状でしたので耳鼻科受診をしますが問題ありませんでした.

 ある日,私は外来で若い女性の名前を呼び入れました.そこには,両側のまぶたが下がり,起き上がろうとしても首が重くて垂れてしまい,舌足らずで階段も上がれず,疲れきった彼女がいました.私は,彼女の体の中にいる末梢神経をむさぼっている「そいつ」に話しかけてみました.しかし実際はそんな「話しかけてみる」みたいな悠長な話しではなかったのです.    続くー

 

15年かかった診断   最終章

2016-07-01

彼女の体の脱力を確認した私は,精査依頼で大学病院へ15年分の紹介状を書き,受診してもらいました.でも結果は異常なしなのです.帰ってきた彼女と相談し,もう思い切ってその病気のお薬を使う事にしました.15年苦しんだ彼女のたってのお願いでした.これは特殊な薬であり,診断が確かでないとなかなか使うことはできません.ある種の私の暴走です.でも効果があったのです.彼女の体はしっかりしました.(この方法は,パーキンソン病にもよく行われた時期があります.パーキンソン病かどうか迷ったとき,「診断的治療」といいまして薬を飲んでみて効果あればパーキンソン病とひとまず診断する方法です.)しばらくお薬を続け,日常生活は安定しました.

 さてしばらく経過し,薬の効果が切れてしまう時がありました.再びまぶたが下がってしまいます.彼女は力が抜けていく中で必死に携帯を取り出し自分の顔を写真に撮りました.症状がおさまり大学病院に受診し自分の顔を医師に見せます.それを診た主治医は「この病気だ,間違いない」と話されたそうです.私との15年の病気探しは終わりました.今は難病指定され医療費は公費で補助されています.現在彼女の全てを理解した新しいご主人が彼女を見守っています.

最後に,1900年初頭にハーバード大学で医学生に教えていた有名な内科教授の言葉を添えて最終章を閉じたいと思います.

「患者の話をよく聞きなさい.彼は診断を話しています.」

15年かかった診断   第3章 –15年目—

2016-04-01

 私と出会って10年が経ちました.「また物が二重に見えます.」3年ぶりの声は明るく元気な様子でした.この電話を受け私の外来に来てもらいました.診察と検査の結果は,前回同様全く問題がなく,今回は大学病へのセカンドオピニオンもせず,様子みようかと話し,彼女はまた去っていきました.

 彼女との病気探しは,途絶えはするけれど15年目に入りました.彼女の澄みきったか細い声を聞き,電話の向こうの彼女の顔を思いはかります.「受診したい,物が二重に見える時があるけれど,今回は体調も悪い.」,この連絡が入り,私の外来に予約なしで飛びこんでくれとたのみました.15年目の勝負です.待合室の彼女を看護師が呼び入れ,診察室の扉を開けました.その瞬間に私は彼女の中に15年も隠れていた病気の本態をやっと捕まえることができました.自分の名前を呼ばれ椅子から立ち上がった様子を直接見て診断を確信しました.「やっとつかまえた.」再会した彼女への最初の言葉でした.立ち上がる時に殿部や太ももの筋力が弱く努力して立ち上がったその様子は,精神的でも気のせいでもなく真実でした.私は確信したのです.今度こその思いで大学病院へ15年の経過を書きました.

 でも病院の返してきた返事は、、、、、、、.私は暴走モードに突入します.次回は最終章です.

 

「15年かかった診断   第2章 −7年目—」

2016-01-01
  7年ぶりに、大学病院の神経内科外来に彼女は現れました。
でも訴えは物忘れではなかったのです。「物が二重に見える時がある。」これを聞き、神経内科医でないとなかなか診断がつかず、またいろいろな科をどうしても受診してしまい、あげくのはてはどの科でも異常なしと結論されてしまいがちな、ある疾患をイメージしました。私が心の中で慌てたは、もしこの病気だったら、突然の手足の脱力と呼吸困難があって倒れるからです。
  以前「義経と弁慶」でお話した自分で作った抗体が自分を攻撃してしまうタイプの病気で、またそれとは別の種類の抗体の病気です。早速血液検査、末梢神経の疲れやすさを計る検査、脳の画像検査などあらゆる検査を施行しましたが、やはり何も異常がありません。
  診察時は物もしっかり見え、異常はありません。他の先生にも診ていただきましたが、答えは異常なしです。残念ながら、また「心の問題からじゃないか」との結論でした。彼女は静かに私達が出した結論を受け入れます。
  私は彼女に「その訴えを信じるね。私が考えている病気は、診察の時にかくれることがよくあるけど、いくらその病気が姿をくらましても検査をすればつかまえられるのに、今回はそれでも姿をあらわさなかった。だけど信じるね、また物が二重に見えたらすぐ来てね・・・・・。」彼女は再び私のもとを去りました。
 
  その3年後です。彼女から電話が来ました。

「15年かかった診断 第1章」

2015-11-01
  ある女性が私の外来に受診しました。30代前半の彼女が、「物忘れをするんです。」と訴えました。確かにお話を伺うと仕事に支障をきたしています。
  しかし血液検査、脳の画像、脳波、神経心理検査どれをとっても異常ありません。私達の結論は心因的なもので病気ではないという判断でした。
  でもひっかかります。通常心因的なものは訴えの内容が多く、言葉遣いや態度、目線などでだいたい分かるものですが、彼女は冷静で状態を分析できます。私たちが出した結論に、心にストレスを持っている人は通常「そんなはずはない、でもつらいんです。」と訴えます。
  しかし彼女は冷静で「きっとそういうふうに言われると思っていました。直接第3者の観察、意見を聞きたかったからです。でも確信は得られず、相談があったらまた連絡を下さいと伝え、私の外来から消えました。
 
  7年後、再び彼女は受診します。その訴えは全く違っており、私を慌てさせました。次回に。

「義経と弁慶~ある女性の戦い 最終決戦~」

2015-07-01
  ある女性の戦い、彼女の人生を紹介して3回目になりました。不思議とこうやって皆様に病気との対話の歴史を紹介しといると彼女から電話があります。「先生、娘も大きくなったので私働こうと思ってハローワークに行ったの。まだ見つからないけど何かやれること探している、頑張ってるよ。」右半身が不自由なはず、視力もままならないはず、何という人でしょうか、この人は。
 
  さて前回お話したように、彼女には出産後皮下注射の新しい治療を開始しました。ところが彼女の体調はくずれます。「目がみえづらい」、「背中が痛い」、この病気は免疫系の病気の為か妊娠中は症状がとても良くなります。
  しかし出産後は反動といいましょうか、症状憎悪となります。私たちは出産後の悪化はよくあることだから頑張って注射を続けてと話し、治療を継続しました。しかしその後も症状は悪化します。とうとう右片麻痺になってしまいました。脳の画像検査をしてみると「ミサイル搭載ジェット機自己抗体」がどんどん脳を冒して戦い果てた脳細胞と護衛の細胞達の残骸が大きく広がっていました。
 
  ちょうどこの頃、日本全国の大学病院や総合病院でもどうしたのだろうとこのおかしな現象に気づき、たくさんの報告があがってきました。この病気は欧米に多い病気で今回の新しい治療法もアメリカより普及されたものでしたが、実はアジア人でこの病気を発症している方々の中にアジア人特有の自己抗体が出現していることをある大学が発見してくれました。
  抗体が違っていたのです。私たちの標的はそれまで見事に姿を隠したまま攻撃を続けていたのでした。いったん敗北を認め引かなければなりません。皮下注射を始めて症状悪化している患者さん達は治療中断、従来の内服治療に戻りました。
 
  いまでも世界中で、この抗体を体の外に追い出すことが出来ずに戦っている患者さんたちはたくさんいます。嫌でしょう、不安でしょう、元に戻らないハンディキャップを背負った体で生きていくのはつらいでしょう、なんで私だけがと思うでしょう、こんなにつらいのにどうして夫は、妻は、子供達は分かってくれないのかといらいらするでしょう、人生の先が全く見えなくなったでしょう。
  彼女も十分に泣きました。十分に心も体も傷つきました。でも攻撃を受けなかった脳細胞達はしっかりと生きていました。抗体はそこにいて次の攻撃の機会を狙っているけれど、脳細胞達はもう抗体を見つめておびえてはいません。夫を見て、娘を見て、外を見てしっかり生きています。彼女はこの戦いに勝ったと私は思います。

「義経と弁慶~ある女性の戦い~」

2015-01-01
  脳には、感じること、考えること、動くこと全てをつかさどる脳神経がひしめき合っています。一方、その脳神経を守るために生まれた細胞達がいます。脳細胞の護衛です。またその他に、脳の中を走り巡る血管達はその壁を特殊な構造にして変な物質や細菌、ウイルスが外から脳に簡単に入らないようにして脳神経を守っています。脳の病気は、これらの血管の壁が壊れたり、変な物質や細菌・ウイルス達がその隙間をかいくぐって入ってしまった場合に脳細胞の近くに控えている護衛達が打ち負かされて発症してしまいます。
 
  その変な物質の一つに自己抗体というのがあります。外敵から身を守るためにあらかじめ私達の体の中に作って備えておいた防衛のミサイル搭載ジェット機です。このジェット機は外敵を見分ける能力も備わっており、主人である私達の命令は待たなくても自分の判断で敵と認識して攻撃してくれます。
  残念な事にこのミサイル搭載ジェット機が主人である私達の脳神経をおおっている蛋白質を敵と誤認してしまう場合があります。攻撃が始まると脳細胞は身動きできません。逃げられません。護衛の細胞達が脳神経を守るために必死で戦います。同時多発で脳の中のあちこちで戦いが始まっています。援護できる状態ではなく、今目の前にある自己抗体を後ろの脳神経に行かせないように戦うので精一杯です。しかしくずれます。仲間が倒れて行きます。この護衛達は自分の死期がわかると、まるで弁慶が義経の最後のプライドを守るために、敵の矢をすべて自分の体で受けて立ち往生をしたように、互いに這って集まり、最後の力をくいしばって立ち上がって肩を組み合い、自己抗体のミサイルを体全身で受けて朽ち果てます。
 
  私達は亡くなられた患者さんの病理解剖の顕微鏡で焼け野原と化したその脳の戦いの後を見ます。スクラム組んでそれでも後ろへ通さないと食いしばって体を硬く硬くして亡くなったその護衛の亡骸を見て、つらかったろうな、頑張ったんだなと話しかけます。
  次回、この病気と戦っている若い女性のお話をします。

「衝撃と偏見~私のこと~」

2014-10-01
  高校3年生の私にそれは突然やってきました.文系クラスで5ヶ月後経済学部大学受験という時に、看護師めざした同級生が私にリハビリテーション養成各種学校のパンフレットを見せたのです。見た瞬間に訳もなくここへ行くと決めました。残り5ヶ月で4教科追加される理系の受験科目が間に合うだろうかなどの不安は全くなく、理系の友人に授業をカセットテープに取ってもらいそれを聞いて勉強しました.
 
  さて合格はしたものの私は実は障害者が苦手でした。どうしてこの職業につきたい衝撃にかられたのか訳わかりません。特に脳性小児麻痺児は自分の顔つき、体つきとかけ離れているため強烈な偏見があり、触りたくありませんでした。でもインターンでその施設に行かなければならず避けて通れない状況となりました。初日,その子は3歳、まだ首もすわらず寝たきりで泣いていました。指導者より「この子が君の担当です。」と言われ、どうしていいかわからず不安いっぱいで抱いてみたら私の心に衝撃が走りました。彼は私に笑顔をみせたのです。その瞬間に私は「生きている命」に触れたことがわかりました。卒業し私はあれほど嫌いだった脳性小児麻痺のその施設に就職しました。
 
  私にはまだ隠していた偏見がありました。それは精神障害を抱えた患者さんです。怖いというイメージしかありませんでした。3年後病院勤務に変わったとき、できれば避けたかった精神科病棟勤務の命令が下りました。彼らの中で仕事を通し、皆心が素直な人達で、好きだから抱きつく、嫌いだから怒る、ただそれだけの感情表現に触れ、その瞬間に偏見が全く消えました。
 
  最後の私の偏見、それは人種です。偏見の多い田舎の小さな島で生まれ、外国の方々にたいする強い偏見が育っていました。
  今は、日本人には計り知ることのできない人種差別を受けてきたその人が私の隣にいます。

「誰もNさんを助けられなかった」

2014-07-01
  夜の救急室にまたNさんがいました.初めて出会ったNさんは失明に近い状態でした. Nさんは何度もこの症状で救急室を受診しており看護師さん達はなんの驚きも示しません.Nさんもこの症状に慣れており,救急室でわがままいっぱいのふるまいをしています.カルテを診てすでにこの症状については神経内科で診断がついており,突然やってくる視力低下にできるだけ早く点滴治療をすればまた回復の可能性も高いため入院となりました.病棟でも明るくわがままいっぱい.視力低下などものともせず,看護師さん達泣かせでした.お隣のベッドに入院中のお年寄りの方をかいがいしく世話し,その方に身よりがないとわかると退院後のお世話までやってのけます.今回も視力がある程度まで回復し退院しました.
 
  あるとき,外来で言った言葉,「結婚するんだ.」と.相手はお子さんがいる看護師さん,携帯の中にその幸せが写っていました.お相手の職業を聞いて安心しました.病気を知った上での結婚,ふるまいからなんてやつだと誤解されることの多い彼のことを理解してくれ,側で一緒に生きてくれる人ができて,とても幸せそうでした.
 
  赴任期間が終わり,他の病院で働いて数年が経ちました.
電話が鳴りました.......あのなつかしい病院からです.Nさんはこの病気のために生活保護を受けていました.でも家族ができて,もっと幸せにするためにちょっと内緒で働いたようです.また体調をくずし入院しました.働いたことで生活保護は中止となってしまいました.奥さんとは離婚してしまいました.病院からは治療終了で退院をせまられていました.ソーシャルワーカーは必死で彼を守りました.でも退院の日が決まり病院を出た後,彼は誰にも告げず一人で永遠に私達と別れてしまいました..........

「最後のセーター」~高校生になったあの子~

2014-04-01
  中学3年生になって,あの子は高校受験を選択しました.彼が選択したのは,受験すれば必ず合格する居住の都道府県の中で最低の偏差値となっている高校でした.もちろん合格です.しかし教師が入学に大反対しました.理由は彼が障害者だからではなく,障害者の彼が入学することで不良学生からのいじめがあることでした.教師がおっしゃるには,学生のほとんどが不良学生で,小学校と違い,いじめの程度,内容もすさまじいというお話でした.教師自体が手こずっているようで学生を信頼していませんでした.でもあの子は入学します.かなり遠い高校のため,生活保護のこの親子の選択は,母親が毎日車で通学の手伝いをすることでした.母親は決して校内には入りませんでした.
 
  さて,3年生になり京都への修学旅行が決定します.学校の方針で自分達のグループでお寺巡りコースから食事から全て計画しなければいけません.不良学生のレッテルを貼られている彼らはなんとやってくれました.自宅から新幹線,新幹線の中でのトイレと座席の位置,京都でのお寺めぐりで車椅子が入れ,車椅子トイレが備わっているお寺を調査し彼ら独自のコースが完成しました.その頃はどのツーリストもやっていない企画です.あの子が不良学生のレッテルをはがした瞬間でした.
 
  セーター5枚,食料,お土産,誕生日のお花,決して裕福ではないこの親子が,医学部受験頑張るように,そのときどきで私に恵んでくれたものです.医学部に入って九州へ行ってしまった私に,親にたよっていないことを誰に聞いたのでしょうか,いつも何かが送られて来ました.
 
  あの子は今障害者住宅に住み元気に働いて母親を養っています.あの時の不良学生達は今,どんな子育てをしているでしょうか.そのような想いを込めて,私は,力つきた最後のセーターに33年間の感謝をのせ別れをつげました.
医療法人名圭会 介護老人保健施設ケアタウンゆうゆう
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